山内太地が語る、「現代日本で求められるリベラルアーツとは」 |
フィリピン セブ島のスラム街(撮影 山内太地)
近年、国際教養、リベラルアーツといった学部が増えています。これはどのような社会の要請によるものでしょうか。かつて、大学はレジャーランドと呼ばれていました。理工系や医療系など、高い実用性や専門性を要求されない、多くの文系大学は、一部の研究したい学生以外にとっては、遊び場でした。文系大学は、文学や歴史など、(一見)将来の役に立たない好きな勉強をしたり、経済や経営といった社会科学系学部の多く、法学部の公務員や弁護士を目指していない大多数の学生は、友だちのノートを写してレポートを出し、サークル活動や飲み会をして卒業していったのです。終身雇用、年功序列の多くの企業が求めていたのは、「学力が高い、まっ白な人材」でした。大学で学んだことなどどうでもいい。それどころか、学ばなくてもいい。仕事は企業に入ってから教える。その力を判断するためには、受験勉強をがんばった証拠は欲しい。だから偏差値や大学名が重要なのです。
1989年のベルリンの壁崩壊は、レジャーランド大学の崩壊でもありました。社会主義国が次々と資本主義に参入したことで、中国や韓国などアジア諸国の経済的な躍進が急速に始まりました。やがてその影響は日本企業にも及び、レジャーランドの真っ白な学生では、企業で役立たなくなってきました。なぜならば、「言われたことをやる人材」ではなく、「自分で考えて行動できる人材」でなければ、新しい仕事を生み出すことができないからです。そのためには大学で遊ぶだけではなく、勉強を、しかも受験勉強のような暗記型ではなく、自分で研究する創造的な人材が求められるようになってきました。「大学で、ちゃんと勉強して、自ら研究し、問題を解決する力を身に付け、新しい仕事を創造できなければ、個人も、企業も、国家も生き残れない」という、親世代とはまったく違う価値観が、現在の高校生の皆さんがこれから大学、そして社会に出る時の価値観です。そこでは大学教育の中身が重要です。
「自分は地元の大学を出て地元に就職するから関係がない」という高校生もいますが、その「地元」は少子高齢化で人口が減少していきます。あなたの将来の仕事のマーケットは、今よりも小さくなる可能性があるのです。そこでは、生産性や創造性を高めないと、給与の維持すらできません。生産性や創造性を高めるのは、暗記力や理解力が問われる高校までの教育だけでは難しい。専門学校は具体的な仕事は教えてくれますが、抽象的な思考の場ではありません。もし、人に使われる立場ではなく、自分が使う側、マネジメントする側、仕事を創造する側になる気があれば、大学に行くべきです。
なぜ新しい仕事をあり方を創造しなければいけないのでしょう。それは、今の日本では、「言われたことをやるだけ」だと、賃金が下がってしまうからです。もっとはっきりいえば、言われたことをやるだけの人は、非正規雇用になってしまいます。さらには、外国のそういった人と仕事の奪い合いです。新しい仕事を創造するためには、専門知識や技術だけではなく、抽象的な思考が求められます。企業は出世して上に行くほど、抽象的な、大きくて広い概念でものを考える必要に迫られます。店員さんよりも店長、店長よりも社長のほうが、そういった高い能力が要求されます。店員さんに比べれば、店長や社長は「エリート社員」ですよね。この、エリートの抽象的な思考力を鍛える教育が、「教養」です。そこで、創造性を涵養する教養教育、英語で言えばリベラルアーツを重視する大学が登場してくる社会的な要請が出来上がって来ました。
教養というと哲学や文学、歴史といった、一見、ビジネスと無関係な人文的なイメージがありますが、創造性や思考力を高めるエリート教育としては、経済や経営を学ぶのと同じように重要です。少なくとも、同じような教育を受けてきた世界のエリートと同じ土俵で仕事をするつもりならば。それは単に、シェイクスピアやプラトンの話ができるとか、英語で日本文化を説明できるとかが求められているのではありません。抽象的な思考力でマネジメントができ、創造性や生産性を高める仕事をしている同類のコミュニティーに入る資格がある、世界のリーダーであることの証明なのです。
組織内で調整型の社長が求められていた、従来の日本の組織には、こうしたリーダーは必要とされませんでした。それよりも、空気を読み、上司に好かれるタイプの人が、管理職でも重宝されたのです。でも、そうしたタイプの「上司」では、世界の「リーダー」には太刀打ちできません。「リーダー」ではない「上司」には、思考力や創造性がないからです。国際教養学部、あるいはリベラルアーツを重視している新しい大学は、こうした、世界で戦えるリーダーを作るのです。それは必ずしも欧米だけが対象ではありません。むしろ、爆発的に発展する、新しい市場、アジアこそ重要です。
欧米よりも距離的、文化的に近いアジアのほうが、日本の仕事のやり方や慣習が通用するでしょうか? とんでもありません。アジア諸国こそ、生き馬の目を抜く弱肉強食の世界。しかも、彼らの生活習慣に合ったビジネスを提供し、顧客を創造しなければいけません。日本のやり方は通用しないのです。すなわち、民族、国籍、言語、文化、宗教、価値観が違う世界中の人たちと、一緒に仕事をし、結果を出すことが求められます。これがグローバル化なのです。さらに欲を言えば、会計、財務、マーケティング、統計といった実務能力もほしいところです。大前研一氏は『SAPIO』2013年4月号で、文化や宗教の異なる人とコミュニケーションする力を「ソフトスキル」、数学を駆使した実務能力を「ハードスキル」と呼んでいます。これこそが皆さんに求められる力です。そういう意味で、英語と留学だけが売りの国際教養学部は、実は危険です。
私は、英語が得意な女子高校生が、文化や言語などを身に付けるためだけの国際教養学部になることを、大いに危惧しています。まだ中嶋嶺雄学長がご存命の頃、国際教養大学の入学式に出席した際、新入生の7割近くが女子学生だったのを見て、私は一抹の不安を覚えました。これでいいのか、と。理工学部や農学部や医学部でこそ、世界の宗教や文化に触れる、リベラルアーツ教育が極めて重要なのではないかと。東京工業大学はそれに気が付いて大規模に教育改革をしていますが、致命的欠陥があります。もっとも男性が深く交流すべき内なる他者、「女性」が少なすぎるのです。東工大は。私は、本来、東工大でもっともっと多くの女子学生に、機械工学や電気工学や土木工学を学んでほしいと思っています。しかし、女子が多いのは化学や建築や生命科学です。それどころか、英語の得意な女子は、実質的に「英語学科」である国際教養学部に行ってしまう。選択肢を絞り込んでしまう。
英語学科や国際教養学部を、選択肢にすることは結構ですが、英語が好きでグローバルな仕事がしたいなら、それだけが選択肢ではありません。カンボジアで、英語がしゃべれる人と、英語がしゃべれてトンネルが掘れる人の、どちらが重宝されるでしょうか。ましてや、仕事場は新興国なのです。新興国では、日本が高度成長期に培ってきた、科学技術や社会インフラの仕組みが、その国々に合った形にカスタマイズされる必要があるとはいえ、切実に求められています。日本の経験が、これから発展する国々で使えるのです。まだ日本には大きなチャンスがあります。しかもアジアの国々は近い。
今、日本の高校生の皆さんが、世界で通用するようなリベラルアーツ教育を受けること、そして、従来の日本の強みを専門技術として身に付けること。この2つがあれば鬼に金棒です。グローバル=語学・留学という狭い視点を捨て、「ハードスキル」と「ソフトスキル」の両方を身に付けてください。
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